世の中ちょっと やぶにらみ!

本音とたてまえ使い分け、視点を変えてにらんでみれば違った世界が見えてくる・・・かな?

「老いの戒め」

yattaro-

ほぼ一日中、恵みの雨を降らせた昨日のお天気。夕方6時30分になって、家中の窓を茜色に染めて「何事が起きた?」とびっくりするような明るさを見せた。それこそ絵に描いたような見事な夕焼けであった。
暑い熱い日差しの毎日でさえ、こんなにきれいな目を見晴ほどの夕景は見たことがない。思わず走って西の空が望めるレンコン畑まで下りた。
見事に輝いて沈む夕日の上には、大雨を予測させる激しい雲が見えたが、幸い今日は雨にはならなかった。

    
              自らに問う 老いの戒め

人間とは実に勝手なもので、昨日の雨は「もっと降ってくれりゃいいのに」と思っていたのに「今日だけは降らないで お願い!」みたいな気持ちで朝を迎えた。
今日は、7月に亡くなった義理の姉の四十九日法要が予定されていた。
車で1時間ばかりの距離だが初めて訪れる田舎道のお寺さんで法要。そのあと食事会場まで30分ばかりの移動。そこからの帰り道など、カーナビをモロに頼る少し心細いドライブだったので、雨にならなくて感謝している。

法要は曹洞宗の古刹でしめやかに営まれた。最初に住職さんから印刷物を手渡された。
「ご縁ですから皆様よろしかったらご一緒に」と前置きされて、般若心経を唱えた。
我が家は浄土真宗なので多宗派の勤行は如何なものか。などと言う狭い料簡は置いといて、門前の小僧ではないが習わぬ経を唱えた。

宗派も経の内容も異なるが、若い時から親身になってお世話をしてもらった義理の姉さんに対する感謝の念は心の奥に息づいている。冥福を祈る気持ちも大きい。そこには宗派の違いなど問題ではなかった。

色んな国の紛争は宗教の違いによって発生している場合もある。信じるものの違いによって相手方を殲滅してもかまわないという考え方にはどうしても付いていけない。それはあなたの宗教心が浅いからよ、などという人もいるが、その人はそれでいい。私は私。信じる心に何の変わりがあるものか。

と、まあ色々難しい問題はあるが、兎に角、お世話になった大切な人の法要は曹洞宗の導きによって無事に終了。最初に住職さんから手渡された印刷物には『老いの戒め』五ケ条が認められていた。
そのうちの一つだけ。「昔を自慢すべからず 人の価値は今日に定まる 励むべし」
自らに言い聞かせたい。

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